選挙と寺山修司と
2025年7月23日(水)
先日参議院選挙が行われました。結果は皆さんご存知のとおりでした。投票率は 58.51%ということで、前回よりも6.46ポイント上がったようです。これは人数にすると全国で6百万人強の人が前回よりも多く投票へ行ったということになります。最近になく投票率が伸びたということでした。とはいえ別に70%や80%になったわけではありませんので、決して「高い」というほどのことでもありませんが。
そうした中テレビ報道を見ていると今回の選挙の特徴として、SNSで(流れてきた)動画を見て初めてその政党のことを知った → なんとなく分かりやすく好感を持った → 投票に行った、という層も一定程度いたようで、そうした従来にはなかった有権者の動向が選挙の結果や投票率に少なからぬ影響を与えたようです。
この現象をどう見るかですが、従来は選挙というものは日ごろからさまざまな形で社会や政治や経済のことに触れる機会が人々にはあり、それも多方面からの話しに触れることで、それが勉強となり、そうした日常を踏まえて有権者が政治や政治家に対する個人的な考えを自ら判断して持つに至り、そして一票を投じるというものだったはずです。もちろん組織票もありましたが、その組織が勉強の場となっていたはずです。一方でそうした勉強に基づく興味(自分で探し、考えることで生まれてくる興味)を前提とする以上、投票率もなかなか伸びなかったというのも事実です。ところが今回の選挙では、「(普段ニュースは余り見ないのですが)たまたまSNSで流れてきた動画を見て良いなと思いました、拡散しました、支持したいと思いました。」 的な、割とあっさりとした有権者が一定の割合で登場してきたのです。 - 驚きました。本当にそれで大丈夫なのでしょうか。
SNSから流れてくる動画や話題はアルゴリズムに従います。自分で見る話題を選択しているようでいて実は話題の送り先として自分が選択されています。結局ITとアルゴリズムに人間の政治への参加姿勢までもが飲み込まれてしまったようで、人間として余りにも受け身になり過ぎていやしないかと心配になります。つまりは社会を動かす主体者が人間からITやアルゴリズムに移って行ってしまうのではないかという危惧です。ITの理由に従って社会が構築され、そこにアルゴリズムの影響を受けながら人間がはめ込まれていく、そんなことを想像するだけで、ぞっとしてきます。
今回の選挙の様子を、あの寺山修司が見たらどのように述べるでしょうか? 愕然としながら、「スマホを捨てよ。町へ出よう」と言うかもしれません。
※寺山修司とは、1935年~1983年に生きた歌人・劇作家で、前衛演劇グループ「天井桟敷」を主宰した多才な人です。代表的な著作の一つに「書を捨てよ。町へ出よう」というエッセイがあります。社会の仕組みや権威、慣習のもと受け身に生きるのではなく、たとえ駄目でも、変でも、さらには逃げることも含めて、あくまで能動的に生きることを良しとした書で、寺山の鋭い観察眼と庶民に対する優しい眼差しが根底に流れる、寺山流のユーモア溢れる思想的な書です。
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